IndexText

散文

> 魚

梅雨時である。先週から降り続いていた雨がようやく上がったので、恋人のミッちゃんと会う約束をした。それも今夜という急な話の理由は、電話ごしの彼女の声が随分べとついて聞こえたので、もしかしたら泣いているのかしら、と僕らしからぬ心配をした為である。

そうして、いそいそ駅まで歩いて行ったのだが、どういう訳だか胸騒ぎがして、途中の古本屋に立ち寄った。

店内には、誰ひとりいない様子で、空調を切っているのか湿気が多くてむわっとしていた。おまけに異様な生臭さが店内に充満している。これは洗っていない水槽の臭いだな…と思いながら店の奥まで行くと、いつもならば店の親爺がいるはずのカウンターに、巨大な魚の顔をした男がじっとこちらを見て座っているではないか。ギョッとして僕が立ち止まると、魚顔がギョロっとした目でこちらを見た。

「マンガなら置いてないよ。」

魚顔は普段の親爺らしく無愛想に言った。魚の口で発音するので若干声がべとついてはいたが、その様子があまりに普段通りだったので、この魚の顔は僕にしか見えていないのではないかという恐怖に包まれた。僕は精いっぱい何も見なかったふりをしながら古本屋を後にした。

幸いにも駅に着くまで誰ともすれ違わなかった。誰もいない道すがら、僕は平常心を取り戻そうと必死でミツコのことを考えて歩いた。古本屋で見た魚。あれは、ウソだ。現実ではない…。忘れよう、忘れよう、僕は何も見ていない。

そんな僕の努力も虚しく、駅に到着するとそこらじゅうに魚の顔をした奴らが行き来していた。切符を買っている連中も魚なら駅員もみんな魚だ。魚の顔をしているクセに、誰もかれもが普段通りにふるまっている。駅前の魚屋の前に魚の顔をした主婦らしき女たちが群がっているのを見て、吐き気にも似た嫌悪感がこみ上げてきた。一体全体どうなってしまったというのだ。僕の知らないうちに、この世界が魚に支配されてしまったのか?それとも、僕の頭がイカレてしまったのか。どこかで読んだことがあるのだが、妄想のような出来事がまるで現実のように感じてしまう病気があるそうではないか。もしもこれが普段通りの光景と言うのであれば、僕の頭は完全にイカレてしまったとしか言いようがない。僕自身にはそのどちらなのか全く判断できなかった。

ともかく、みんなが魚になってしまった場合を想定して、僕はまずなによりもミツコが心配になった。彼女は魚だらけの街を見て怯えているのではないだろうか。…いや、まてよ。ミッちゃんも魚になっているかもしれないじゃないか!そうなったら僕はいったいどうやってこの先生きて行けばよいのだ。

僕は居ても立ってもいられなくなって、ミツコに電話をかけた。何度か呼び出し音が鳴っていたが、彼女は出なかった。パニックの塊がのどから飛び出してきそうになった。僕は必至でそれを飲み込み冷静さを取り戻そうと努力した。ミツコは、ミツコは電車に乗っていて電話に出れないんだ。そうに決まっている。

僕は足早に駅へ向かい、なるべく魚顔の通行人や駅員を見ないように努めながら改札を抜け、ちょうど来た電車に飛び乗った。もちろん乗客は全員魚の顔をしていた。僕はドアにへばりついてなるべく魚が視界に入らないように外の景色ばかりを見てやり過ごした。待ち合わせの駅に到着すると、僕は下を向いたままで急いで改札に向かった。すれ違う人たちがみんな魚の顔になっているがチラチラと視界に入って見えた。僕はたまらず走りだした。一刻も早くこの悪夢様な状態から抜け出したかった。僕はある程度わかっていた。僕の頭がおかしくてみんなが魚に見えているんだ。じゃないとこんなに一斉に人類が魚になるなんて考えられない。ミツコに会えばきっとこの状態から抜け出せるだろう。抜け出せるに決まっている。

待ち合わせの南口改札に到着したが、ミツコはまだ来ていないようだった。僕は改札正面の柱の前に経ってミツコを待った。どうしても前を見ることができないので、下を向いて待った。大丈夫、ミツコが僕をみつけてくれる。

そうして数分間、僕はうつむいて恋人を待っていた。しばらくすると、僕の方をトントンと叩く者がいて、顔をあげると、ミツコが立っていた。可愛い赤いチェックのワンピースを着て僕がプレゼントしたブレスレットをしている。

「遅れてごめんね。電車に乗ってて電話くれたのに気がつかなかった。」

ミツコはチロっと舌を見せて誤った。大きな魚の顔。そう、ミツコの顔も立派な魚の顔になっていた。

ミツコも魚の顔になっていたのだ。

 

 

Text TOP

 ≫

 ≫ 散文

 ≫ 戯曲

 ≫ 夢日記

▲TOP